現象学、ヴィクトリア朝英国にネット社会、読心術、魔術師にクラシック音楽…多彩な舞台で描かれたミステリ8冊を末國善己が紹介(Bookレビュー)
ブックバン 8/26(火) 6:00
面白い仕掛けのあるミステリを中心にした8冊を文芸評論家の末國善己が紹介する。 *** 笠井潔『夜と霧の誘拐』(講談社)は、現象学的推理を駆使する矢吹駆が活躍するシリーズの第八作で、ユダヤ系の富豪ダッソー家と第二次世界大戦中のナチスのユダヤ人絶滅収容所で三重密室の殺人事件が発生する第四作『哲学者の密室』の続編となっている。物語は独立しているが、前作を読んでおくと本書がより楽しめる。 1978年のパリ。駆と友人でワトソン役のナディアがダッソー家に招待された日、当主ダッソーの一人娘ソフィーと間違われ運転手の娘サラが誘拐された。同じ頃、ナディアの父でパリ警視庁のモガール警視は、聖ジュヌヴィエーヴ学院で起きた学院長殺しを捜査していた。 大富豪の子供と運転手の子供が間違われて誘拐される発端は、エド・マクベイン『キングの身代金』へのオマージュである(作中には、同作を翻案した黒澤明監督の『天国と地獄』への言及もある)。ただ身代金の受渡しは独自のもので、大金を持ったナディアがパリ中を駆け回るシーンのスリルには引き込まれるだろう。やがて誘拐と殺人には、同じ人物が関係し、同じ拳銃が使われた事実が判明するが、二つの事件を行うのは困難だった。 矢吹駆シリーズは、駆と実在の哲学者をモデルにした登場人物との思想対決も重要な役割を果たし、本書にはハンナ・アーレントをモデルにしたハンナ・カウフマンが出てくる。駆とカウフマンは、ナチスのユダヤ人虐殺、イスラエルを建国したユダヤ人によるパレスチナ人の迫害、ホロコースト否定論を始めとする歴史修正主義などを議論していく。駆は誘拐の本質を分析することで真相に迫るが、現在のイスラエルによるガザ侵攻が、パレスチナの武装組織ハマスがイスラエルの音楽フェスティバルを襲撃し多くの人質を取ったことが発端になったことを踏まえるなら、(本書は2010年の連載なので偶然ではあるが)駆の思索は現代と地続きになっていることも忘れてはならない。
18世紀のイギリス海軍の軍艦で連続殺人事件が起こる『帆船軍艦の殺人』で第33回鮎川哲也賞を受賞してデビューした岡本好貴の二作目『電報予告殺人事件』(東京創元社)は、ヴィクトリア朝のイギリスを舞台にしている。チャーチゲート局の女性電信士ローラは、局長を訪ねてきた甥のネイトを案内するが、局長は密室状態の局長室で死体で発見された。警察は多額の遺産を相続するネイトを容疑者と考えるが、ネイトの無実を確信するローラは電信士の技術を使って調査を始める。一方、警察には局長ともう一人の名前が書かれた謎の電報が届き、そのもう一人が殺害されたことから電報を使った予告殺人の可能性が浮上する。ローラは有能な電信士だが、そのために仕事を奪われたくない男性電信士に嫌がらせを受けた過去があり、現在は両親に結婚か仕事かの選択を迫られている。女性の社会進出を阻む状況がローラが事件に挑む原動力になるだけに、ローラへの共感が大きい女性読者は少なくないはずだ。電信は、高い匿名性が新たな犯罪を生む一方、多くの情報を早く集めることができ、それがローラの調査を有利にする。こうしたテクノロジーの発達がもたらす当時の光と闇が、現代のネット社会と似ていることに驚かされるのではないか。それだけに、電信のソフト、ハードの両面の緻密な時代考証を用いて作られたトリックは圧巻である。
塩田武士『踊りつかれて』(文藝春秋)は、ネットに書き込まれる誹謗中傷を題材にしている。芸人の天童ショージが、不倫報道が発端となった炎上で自殺。歌手の奥田美月は、妻子ある俳優との密会を取材する記者に暴言を吐き、その音声が流出して炎上状態になり姿を消した。この二人への誹謗中傷をネットに書き込んだり、取材したりした83人の氏名、住所、会社、学校などの個人情報が、【宣戦布告】としてブログにアップされた。個人情報をさらされた人たちが、ささやかな鬱屈や不満からネットに暴言を書き込むまでが描かれる第一章は、SNSが身近なだけに生々しい。ネット社会の闇を徹底して暴くダークな本書だが、ショージと美月が理解者のアドバイスと重ねた研鑽によって芸能界のトップへ登り詰める心温まるドラマや、ネットの誹謗中傷に抗う人たちの姿も描かれている。そのため暗いだけの物語になっておらず、現状とどのように向き合うかを考えさせられる。
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