「恋愛」することが「失恋」することでもあるような「生活」とは? 町屋良平の最新長編『生活』の魅力に、作家・詩人の井戸川射子が迫る(Bookレビュー)

 ブックバン     8/29(金) 6:00


 

 

『生きる演技』『私の小説』の町屋良平による最新長編『生活』が新潮社より刊行。

 

本作を作家・詩人の井戸川射子さんが語る。

 

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「からだが先で、感情が後である。そしてことば先で、からだ後である」。言葉と感情に挟まれた身体を、形なきものを前後に携える身体を、どうしていくかが生活である。『生活』の主人公の「かれ」は、読者から見れば、絶え間なく恋をしている、「かれ」はこう思う、「恋愛感情をあずけた相手を『とても理解』するということは、恋愛というよりは失恋にちかしい経験で、恋を維持するにはそのような『とても理解』はいつだって仇なした」。自分に対してだってそうかもしれない、自分をとても理解していくことを目指してるんだけど、それは自分への期待を、失っていくのと同じくなるし。『生活』は二部に分かれており、第一部、「かれ」の身体との関わりは、着る服着せる服に主軸が置かれる。外見は、外見というものがあったのだと、後から発見されるような部分ではない。でも自分は後から発見するのだ、そこに他者の目とのずれがあるか、私にとって私の身体は、常に他人に遅れて発見されるものではないか。私が肌に違和感を覚える前に、他人が私についたごみを手を伸ばし取ってくれるような、自分の身体にフィットした、他人が測ったオーダーメイドの服を着て初めて、私には私の身体のシルエットが見えるというような。「ゼロからなにかが始まりイチになっていく過程の、その神秘とおそろしさとは……」と、「かれ」は作家である父親の、創作活動について語る。生活はたいていは何となく、ゼロから始まってはいない。自分というイチがもうあり、そのイチを保持していく行い、それがいつかゼロになるのは知っていて。身体との関わりはもちろん装いだけではないため、身体の動きといえば、時折やる書道の動きくらいであった「かれ」の身体は、第二部ではより激しい動きの中で揉まれ、他人の身体も多く周りに登場してき、それらとのずれも含んで、ずれは暴力ともなり得、生活は跳ねに跳ねていく、「かれ」の存在感は何となく希薄にもなっていく。その転機となるのが、第一部の最後であろう、そこで「かれ」の生活は一旦ゼロに肉薄する、自分の身体を失うかと思われる、その後何だか生活が希薄になっていくことで、「かれ」が希薄になり、その人の生活はその人の存在感であるのだろう。「かれ」の母親は、「かれの命が危機に瀕しているときに神に祈ったが、神とは自分たちの過去のことだった。この世に生まれたかれと歩んできた二十年、そしてかれを生む未然の運命とともにこの身体を生きてきたもう二十年、その四十年という時間」を携え、失うかもしれない「かれ」を心配する。母親は息子の死への接近に、自分の四十年分で泣くのであろう。まとめて自分であり、過去こそ自分のような気もする、今と指し示せば一瞬間後に過去になる。「過去が神だから、明日は人間で、いまが生活だ」。生活は偶然であり運命であり、何とでもいえよう、何とでも語れるということは希望と、暴力性を内に抱くだろう。

 

[レビュアー]井戸川射子(作家)

 

協力:河出書房新社 河出書房新社 文藝

 

 Book Bang編集部

 

 新潮社

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