佐野寿宏のBOOKブログ!あえて戦争について「考えない」、観光客的な態度で臨む平和論…東浩紀『平和と愚かさ』を読む(Bookレビュー)
ブックバン 7/14(火) 6:00
書評『平和と愚かさ』
記憶の変化は原理的に当人にはわからない。「記憶が変化した」ことを覚えている、ということは変化前の記憶を覚えているということであり、本当の意味で記憶が変化したとは言えないからである。記憶の変化を指摘できるのはその変化を観察していた、当人以外の人間である――これは個人の記憶についての場合である。では二者の関係性の記憶の変化についてはどうだろうか?
友人同士であるAとBがいる。しかしAはある時「Bは昔からずっと自分を虐めていた。我々ははじめから友人などではなかった」と言う。Bは反論し「Aを虐めたつもりなんてない。我々ははじめから今にいたるまで友人である」と言う。この場合AはBの責任を追及するために「虐めがあった」という記憶だけを保持し、Bはそれに反論するために「友人だった」という記憶だけを保持し、結果的に両者とも記憶の変化を否定する。
この場合、係争外の第三者だけが記憶の変化を指摘できる。これを国家間紛争の問題に置き換えてみると、第三国の人間のみが記憶の変化を指摘できるということになる。
それはある意味、両国どちらの立場もとらない、政治的に無責任な態度である。時にはふらふらとした、物見遊山的な態度であるかもしれない。しかしそのような政治的に無責任な、ふらふらとした、物見遊山的な態度でのみ、考えられることがあるというのは、『観光客の哲学』以来著者の主張であり、今作にも貫かれている。
今作において、そのような「観光客」的な態度で著者が何を考えようとしているかというと、一つは第1部の旧ユーゴスラヴィアの旅を通じて思考される、平和としての「考えないこと」である。――(1)
著者は平和の本質として、「戦争について考えないことが許されること」をあげる。「戦争について考えない」というのはつまり「平和ボケ」である。普通それは「愚かさ」として批判される。現実には「平和」の名のもとに、差別され、虐げられ、殺されているものたちが存在しているという事実を、抑圧しているからだ。しかし「平和ボケ」が許されない状態というのは、あらゆる思考の領域が、政治に、友と敵の闘争に、戦争に結び付けられる、ということであり、その時すでに平和は失われてしまっている。だから平和について考えようとすると、「考えないこと」について考えなければならない。
もう一つは、第2部のハルビンやウクライナの旅を通じて思考される、悪の愚かさとしての「考えないこと」である。――(2)
ある種の悪は、考えなしに、中動態的に、無意味に行われる。原因となる行為とその行為のもたらす結果の間にある距離や時間を、道具や技術や組織が引き延ばしてしまい、意志と行為と責任の結びつきがふっつりと切れてしまうからである。その悪の愚かさを記憶することが非常に難しいのは、被害者からすると自分の被害が「無意味」だったとされることに耐えられずむしろ悪の物語化(加害者はしっかり考えた上で能動的に悪を為した)を望むからであり、加害者からすると「考えなし」だったためにそもそも悪を為したことを忘れてしまうからである。そうして愚かな悪は未来においてまた繰り返されてしまう。
この(1)(2)二つの「考えないこと」≒愚かさは、「現在の平和のために達成されるべき愚かさ(1)」と「未来の平和のために克服されるべき愚かさ(2)」と言い換えることができる。ちなみに(1)については「本当は平和ではなく加害被害の関係であった」と認めることができる訂正可能性が、(2)については悪の愚かさについての反実仮想を含めた時間の重層的な記憶が、つまり両者とも過去への開かれた態度が、達成または克服のための付帯条件となっている。
著者の『訂正可能性の哲学』の読者でなくとも(1)の付帯条件である訂正可能性はわかりやすいだろう。しかし(2)の付帯条件である「反実仮想を含めた時間の重層的な記憶」とはどういうことか。それは例えば実際に、「チェルノブイリ」等の固有名詞を持つ場において過去に起きたカタストロフィから伸びる現在の世界線に対し、その固有名詞を持つ場においてカタストロフィが起きなかった過去から伸びる新たな世界線(原発事故の起きなかった「チェルノブイリ」)を考えることである。世界が今のありようでなくてもよかった、その可能性を考えることでしか、悪の愚かさの中動態的性質(悪を為しても為さなくてもどっちでもよかった性)のことを、能動と受動の関係に書き直さないままに記憶できないのではないか――ここはこの縦横無尽な論考においても特にSF的な想像力に富んだ、アクロバティックな部分で、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』や大江の『治療塔惑星』等文学作品の引用含め、著者の文芸批評家としての特質がいかんなく発揮された部分である。この箇所(第2部の3)は構造的に見れば本論に対しての付帯文章にもかかわらず、本書の中で最も輝きを放っている。またこれは全編とおしても言えることだが、著者の筆致は固有の土地の重層的な記憶を描く際に限りなくゼーバルト的な想像力に接近している。
余談ではあるが、『平和と愚かさ』の感想をSNSで眺めていると「ヴォネガットの『スローターハウス5』を思い出した」というものがあった。私も思い出した。同時にゼーバルトの『空襲と文学』も思い出した。『スローターハウス5』でも『空襲と文学』でも、第二次大戦の「加害」国であるドイツのドレスデンを中心とした都市への連合国の空爆と、その凄惨な被害が取り上げられる。しかしそれ以上にゼーバルト読者ならば『アウステルリッツ』を思い出したのではないだろうか。『アウステルリッツ』では建築史家アウステルリッツがヨーロッパ各都市を渡り歩きながら帝国主義の遺物の駅舎、裁判所、要塞、監獄の建築物を巡り、その博物誌的な知識を語り手である〈私〉に開陳する。現在の土地と、その土地の暴力と権力の記憶が二重写しになり、死者たちの影が眼前に揺曳し、それらの記憶と死者の消失点としてアウシュビッツが浮かび上がってくる。旅、加害と被害、土地、暴力と権力の記憶、博物館といった要素を大ざっぱに並べただけでも、本書との共通点は多い。
話が逸れた。「現在の平和のために達成されるべき愚かさ(1)」と「未来の平和のために克服されるべき愚かさ(2)」の話に戻ろう。
察しの良い読者は既にお気づきかもしれないが、この(1)が達成されている時には(2)は克服されておらず(「悪の愚かさ」が忘れられている)、(2)が克服されている時には(1)は達成されていない(「考えないこと」ができていない)。これは「同時にはできない」というのがポイントであって、そのヒントになるのが第3部の最後に登場する「客的―裏方的二重体」である。ある個人がある時は「お客さん」になり、ある時は「裏方」になる、という現代社会の特徴こそが、自然科学と人文学の関係を新しくとらえ直すために重要である、という非常に刺激的な論考なのだが、これをさきほどの(1)と(2)の対立に当てはめてみると、「時間帯によって(1)と(2)を行き来する個人」というものが導き出される。繰り返しになるが現代社会において、人間はある時は「お客さん」でも、ある時は「裏方」である。今、自分がエンジョイしている平和な世界が誰かの奉仕と犠牲で成り立っていることを、折に触れて思い出したり忘れたりする。著者はそのような忘れっぽい態度を決して否定しない。人間存在の有限性を、その精神に対する身体の遅さを、著者は尊重するからである。そうしてその尊重は、上記のような思想を涵養するために、実際に長い年月をかけて旅をしなければならなかった、著者自身の遅さに支えられている。
「人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある」「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ」とヴォネガットは『スローターハウス5』で書いた。ヴォネガットと同じく『空襲と文学』でドレスデンの空爆について語ったゼーバルトは、『アウステルリッツ』でだけでなく常に記憶の側に立ち続けた。けれどもドイツでは今まさにその記憶が、ガザでのイスラエルによる虐殺の擁護の論理に明確に繋がっている。無論それはゼーバルトの責任ではない。ゼーバルトの作品群の栄光が色褪せるわけでもない。しかしこうも言えるだろう。「もうゼーバルトだけじゃ足りないんだ」と。
本書の最後で「ものを考えない」でいることについて、著者は言う。「そしてそれは悪ではない」。愚かさはまだ悪ではないのである。
だから本書は平和論であると同時に時間論でもある。逆説的ではあるが時間について考えるためにも、著者にも読者にもこのような膨大な空間の移動が必要だったのである――
というのは本書のかなり乱暴な要約(とその諦め)であるが、その要約の成否は別として、無論そのような要約された思想を述べるために500頁近い長さがあるわけではないし、著者は旅をしたのではない。著者はあくまで旅先の戦下の街や戦争跡地や博物館等で、実際に見聞きしたものからゆっくりと、粘り強く思考を練り上げていくのであり、その思考の、行きつ戻りつする迂遠な道程をすなおに追体験してみることが、今作の最もおいしい味わい方であると私は考える。
また冒頭で私は「無責任」や「物見遊山的」などということばを用いたが、実際、今作を読んだ読者はむしろ著者の文章の責任感や生真面目さに驚かされるだろう。紀行文には必須に思えるユーモアや軽妙さは全くと言っていいほど見られない。また福尾匠氏の書評で指摘があったように異国情緒を醸し出すためには最適な匂いと味の描写もほとんどない。要するに著者は様々な観光地に行きはするが、ろくに遊びはしないのである。リゾート地ですら「ちゃんと」滞在しながら原稿を書いている。
そのような倒錯的な生真面目さや誠実さから、非常にアクロバティックでスリリングな論考を生み出す、矛盾に満ちた、重層的な著者の在り方こそが、読みどころの一つであることは間違いない。
[レビュアー]畠山丑雄(作家)
1992年大阪生まれ。京都大学文学部卒。2015年「地の底の記憶」で文藝賞を受賞し、2025年『改元』が三島由紀夫賞候補となった。著書に『地の底の記憶』(河出書房新社)と『改元』(石原書房)がある。
協力:新潮社 新潮社 新潮
Book Bang編集部
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