佐野寿宏のBOOKブログ!「司馬遼太郎」はなぜ「宮本武蔵」を好まず、評価もしなかったか? 『真説宮本武蔵』で「試合」を「殺人」と呼んだワケ(Bookレビュー)
ブックバン 8/27(木) 6:00
名著には、印象的な一節がある。 そんな一節をテーマにあわせて書評家が紹介する『週刊新潮』の名物連載、「読書会の付箋(ふせん)」。 今回のテーマは「師匠」です。選ばれた名著は…?
宮本武蔵は、数え年13から29まで、60余度の仕合を勝ち抜いたという。大変な頻度だが、その最初の仕合は剣ではなく、武者修行者を少年武蔵が逆落しに殺したのである。司馬遼太郎は『真説宮本武蔵』で、それを「殺人」と呼んだ。 「武蔵はついに生涯、何流をも学ばず、何者をも師としなかった」「学ばずに実際の格闘から体系をたてた兵法家は、古来、武蔵ひとりであった」 幼い武蔵が実父新免無二斎を嘲弄した。無二斎は怒りのあまり武蔵に小刀を投げ、さらに小柄を投げた。それた小柄を柱から抜き取りながら、武蔵は父をあざ笑いつづけた。 敵の刀を片手の十手でこじりとり、残る片手で抜刀して相手を斬る十手術の名人であった無二斎が、あるいは二刀流のヒントとなった可能性もあるが、いずれにしろ過剰に特異な父子とその関係であった。 司馬遼太郎は武蔵の剣技について書いている。 「しょせん、兵法は、太刀行きの早さできまる。太刀行きの迅速さは、卓抜した運動神経と膂力と気力の三拍子がそろうことによって可能だが、武蔵は千万人に一人といえる天賦があった」「武蔵を学ぼうとすれば武蔵になる以外に手はなかった」 武蔵は「師」になれる人ではなかった、取り巻きはいても「弟子」はいなかった。「教育」による伝達と受容をこそ重視した司馬遼太郎は、独立峰のような「天才」を好まず、評価もしなかった。 [レビュアー]関川夏央(作家) 協力:新潮社 新潮社 週刊新潮 Book Bang編集部 新潮社
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