佐野寿宏のBOOKブログ!カウンセリングに訪れる人々の人生と探検家の人生の共通点とは? 臨床心理士・東畑開人が語った、一人ひとりの人生に現れる「冒険」(Bookレビュー)

 ブックバン      9/7(月) 6:00

 


 

 

 国内での地図をもたない山行や、北極圏での極夜行など、既存のルートや予定調和から外れた冒険を続けてきた探検家の角幡唯介さん。  その角幡さんが、歴代の探検家の記録や哲学書を引きながら、「冒険とは何か」をテーマに綴った『新・冒険論』(2018年刊)に加筆修正を加えた文庫『荒地で生きる』を刊行しました。  臨床心理士東畑開人さんが、『荒地で生きる』を読みながら、カウンセリングの現場で向き合う人々の人生と冒険について綴った文章を紹介します。 ※本稿は、角幡唯介さんの著書『荒地で生きる』(山と溪谷社)に寄せた東畑開人さんの解説を抜粋・編集した記事です。  ***  新刊が出ると聞くと、必ず予約をして、発売日までを楽しみに日常を過ごす。そういう同時代の作家がいることは真に幸せなことだと思う。  彼らは新刊のたびに、新しく更新された姿を見せてくれる。そこには古典では味わえない独特の驚きがあり、喜びがあり、励ましがある。作家は同じ時代を生きているわけだから、それは私と同じ大陸の別の場所で、しかし私が日々悪戦苦闘しているのと同じような悪場を体験しながらなされている私とは別の冒険のように感じるのである。  私の場合、そのような作家は片手の指で収まるくらいなのだが、間違いなく角幡唯介はそのうちの一人だ。  どうして角幡唯介なのだろう。  私は極限的インドア派だ。なにせ心理療法家なのだ、小さな部屋から出ない仕事だ。  山にも、川にも、氷河にも、定着氷にも、ゴルジュにも興味がない。というか、ギリシア神話に出てくるメデューサの妹分みたいな禍々しい名前だなとは思うが、そもそもゴルジュがどんな地形なのかを知らない。調べもしなかったくらいに、全く興味がない(でも大変なところなんだろうなとは思う)。  それなのに、どうして角幡唯介なのだろう。なぜこんなに角幡本は面白く、そして心を打つのだろう。いや、撃つのだろう。  この問いを、無論新刊で出たときにすぐに読んでいた『新・冒険論』の文庫化であるこの『荒地で生きる』を読みながら、ここ数日考えていて、そして明確にその答えを得た。たとえば、次の文章。    冒険者は脱システムすることで、自力で命をコントロールする自由を経験する。  自由であることには不快で面倒くさい面があるが、一方で圧倒的な生きている実感を手にすることもできる。この実感は非常につよいものがあり、一度経験するとシステムの内側の日常に満たされない空虚感をおぼえることになる。登山者が何度も山に登り、冒険者が飽くことなく荒野をめざすのはそのためだ。(本書208頁)    ここに書かれた自由と空虚感。それこそが、私が日々、東京の小さな商店街にある、小さなビルの小さな部屋で行っている仕事で扱っているものなのだ。    私が普段している仕事は二種類に分かれる。これを『カウンセリングとは何か』という本で、「作戦会議としてのカウンセリング」と「冒険としてのカウンセリング」という言葉で紹介した。ただ、本書の冒険の定義である「脱システム」を採用するならば、実は両方とも冒険である。ただし、前者は気づけばはじまっていた冒険であり、後者はいつまでもはじまらない冒険だと言える。  前者はたとえば、「2か月前に夫の不倫が発覚してから、自分はおかしくなってしまった」という主訴ではじまる60代女性とのカウンセリングを想像してもらうとよい。  そのとき、彼女はなんの準備もないままに、ゴルジュに放り出されている。現在の日常がガラガラと崩れるだけではなく、過去にあったと思っていた日常まで嘘のものだった、と打ちのめされている。  私の仕事はこのゴルジュを乗り越えるために、手助けすることだ。まずは眠れるようになるために精神科を紹介するかもしれないし、ひとまず別居するためのアドバイスをするかもしれない。とにかく混乱を鎮めないと雪崩にのみ込まれてしまうからだ。  部分的にではあっても、冷静さが戻ってきたならば、私たちは問題と向き合っていくことになる。夫とは何者であったのか、夫婦の生活とは何だったのか、彼女はなぜそういう人を選び、そして関係を続けてきたのか。そして、これからどうするのか。  そういうことを無限に話し合っていく。  彼女は脱システムの世界を生き抜いている。「老夫婦としての余生」というそれまで存在すると思っていた日常的システムが剥ぎとられ、壊され、異界に投げ込まれている。彼女は危険な冒険を歩き通さねばならない。その果てに、なにがしかの結論を得る。そのとき、彼女は今までとは違う生き方をするようになっていて、自分と世界についての何らかの知恵を得ているはずだ。  私はこれを冒険だと、深く思う。おそらく彼女の周囲の人たちには誰にも気づかれないままになされた極夜行だと思うのだ。彼女は一人で暗闇の中を惑い続け、いつ出るかわからない光を探し続けたのだ。    もうひとつ、いつまでもはじまらない冒険を抱えている人たちとのカウンセリングがある。こちらの方が角幡的かもしれない。たとえば、「ずっと空虚感がある」という漠然とした主訴ではじまる40代の終わりにいる女性とのカウンセリングを思い浮かべてほしい。  彼女は恵まれているように見える。会社では責任のある仕事を任され、同僚からは人望が厚く、結婚していて、子どももいる。十分な人生に見える。しかし、彼女は空虚感を抱えている。すべてが偽りのように感じているからだ。  実際、彼女と話をしていると、私も空虚感に襲われるようになる。物腰は柔らかく、話は筋が通っている。気遣いに満ちている。彼女と話しているとコンシェルジュみたいに快適だけど、どこにも彼女らしさを感じないのだ。つまり、ゴルジュがない。  彼女の生活は隅から隅までシステム化されている。リスクを極力排して、効率的に日々が流されている。ゴルジュに陥らないように、舗装された人生を彼女は設計している。そうなるには痛ましい過去があるのだが、ここでは割愛する。いずれにせよ、彼女は安全だ。しかし、孤独なのだ。周りはみんな彼女をいい人だと思っているけど、彼女は誰も愛していないし、実際には誰も彼女のゴルジュを愛していない。  彼女は冒険がはじまらないようにしている。したがって、私は頻繁に会うことにする。週に2回会うこともあり、それが数年単位で続く。すると、少しずつ彼女の洗練されていない部分が姿を現すようになる。共に居る時間が重なるほどに、人はシステムの鎧を緩ませるものだ。すると、彼女の未熟で、破壊的で、嫌なところが漏れ出るようになる。私はようやくゴルジュと出会い、これと七転八倒することになる。  すると、何かが変わる。彼女はある日突然告白するのだ。「好きな人ができて付き合っている」不倫を始めていたのだ。「まじかよ」私は驚く。冒険がはじまっている。  彼女は脱システム化された世界で、傷つけたり、傷ついたりするようになる。他者というゴルジュと真剣に向き合い、自分のなかのゴルジュをのたうち回る。それは苦しい時期になるのだけど、でも生きている感じは確かにするようになっている。そこからは先の60代女性と同じだ。彼女も極夜を歩き通していく。    別に不倫じゃなくてもいいのだ。脱システムはあらゆるところに潜んでいる。ある朝突然子どもが学校に行かなくなる。健康診断で病気の疑いを告げられる。会社の経営が傾き新しい上司がやってくる。友人からLINEの返事が来なくなる。そして、今まで会ったことのないタイプの人と新しく出会う。そういうとき、システムは揺らぎ、不可視化されていたゴルジュが顔を覗かせる。  これらをシステムに従って、処理することもできなくはない。実際には処理できていなかったとしても、システムの型通りのままに置いておくことで、無視することはできる。  しかし、冒険に旅立つこともできる。答えのない大地で、自分の力で一つずつを確かめて、凶悪なゴルジュを自分の手と足で突破しようと七転八倒することもできる。  そうすることで、人は自分の限界を痛感し、自分の愚かさに打ちのめされることになるだろう。しかし、そこに今まではあり得ないと思っていたけど、実はあり得た生き方を見出すことになる。脱システムは自由をもたらす。あり得ないこともあり得ることを教えてくれる。そこに自分らしさが生じるのだ。自分らしさとはなりたい自分ではなく、なりたくなかった自分と七転八倒しているときのゴルジュ的自分である。    どうして角幡唯介なのだろう。もはや答えは明確だ。  彼の冒険は確かにグリーンランドで行われていて、犬橇にまたがり、海豹を狩り、氷山を越えるようにしてなされているが、それは実は東京の心理療法室で行われているものでもあり、そして千葉のニュータウンでも、奈良の健康ランドでも生じているものだ。堅固に見えるシステムは、不意の一撃で容易に脱システムと化し、人生を混沌へと陥れる。しかし、そこでなされる個人的な七転八倒こそが、真に生きることなのだと私は思う。  角幡唯介はこれを励ましてくれるのだ。彼が同じ大陸の別の場所で同じような悪場を突破する姿を見せてくれるからだ。そんな人、同時代にほかに誰かいるだろうか。  だから、角幡唯介でなくてはならないのである。  さあ、書きたいことが沢山あったせいで、すでに字数は大幅に超過しているので、終わらねばならない。ただ、ひとつだけ問いを残しておきたい。  角幡唯介はどうやって帰還するのだろうか。心理療法家はどうしてもそういうことを考える。不倫がいつかは終わる宿命にあるように(悲惨な形にせよ、心温まる形にせよ)、脱システムもまたどこかでシステムへと再包摂されねばならない。この困難な帰り道を共にすることもまた、心理療法の極めて重要な仕事だ。あの世に降(くだ)るのは、この世に戻るためだ。異世界に赴くのは、日常へと帰るためだ。極夜行は太陽に向かって歩む。システムの中で生きている感じを回復するために、私たちは脱システムを必要とし、そこから自由と知恵を持ち帰るのである(これを私は「勇気」と呼ぶ)。  しかし、角幡唯介は帰ってこない。作品ごとに一応は帰還したフリをしているが、心は帰還していない。帰り道を帰り切らずに、新しい冒険へと旅立つ。彼の書いている通り、システムの中では死んでしまうからなのだろう。  それでいいような気もする。帰還を重視するのは、所詮はシステム内部で仕事をする心理療法家の小市民的浅知恵のような気もする。脱システムの極北を漂泊する人が世の中にいることは豊かなことじゃないか。そう思うくらいには、角幡本によって私も自由になっている。  しかし、思うのだ。  帰り道にこそ、最恐で最悪のゴルジュがあるのではないのか。  おい、どうなんだ。本当はそうなんじゃないのか。  と思ってしまうので、角幡唯介の新刊を私は待ちわび続けることになるのである。 [レビュアー]東畑開人(臨床心理士) 1983年東京生まれ。専門は、臨床心理学・精神分析・医療人類学。京都大学教育学部卒業、京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。精神科クリニックでの勤務、十文字学園女子大学で准教授として教鞭をとった後、2022年3月現在、白金高輪カウンセリングルーム主宰。博士(教育学)・臨床心理士。著書に『野の医者は笑う―心の治療とは何か?』(誠信書房 2015)『日本のありふれた心理療法―ローカルな日常臨床のための心理学と医療人類学』(誠信書房 2017)『居るのはつらいよ―ケアとセラピーについての覚書』(医学書院 2019)『心はどこへ消えた?』(文藝春秋 2021)。訳書にジェイムス・デイビス『心理療法家の人類学―こころの専門家はいかにして作られるか』(誠信書房 2018)。『居るのはつらいよ』で第19回(2019年)大佛次郎論壇賞受賞、紀伊國屋じんぶん大賞2020受賞。 協力:山と溪谷社 山と溪谷社 Book Bang編集部 新潮社 

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