佐野寿宏のBOOKブログ!「あまりにも美しい」精神科医が息をのんだ「神話の世界」がそのまま広がるアイスランドの絶景――『【完全版】エッダ―古代北欧歌謡集』を読む(Bookレビュー)
- リンクを取得
- ×
- メール
- 他のアプリ
ブックバン 9/11(金) 6:00
11世紀の北欧を舞台にした漫画『ヴィンランド・サガ』(幸村誠)が人気のように、日本では『エッダ』や『アイスランド サガ』など北欧の古典に魅せられる人が多い。精神科医で作家の野田正彰さんもその一人。これまで何度も北欧神話の舞台であるアイスランドを訪れたという。 今年2月に刊行された『【完全版】エッダ―古代北欧歌謡集』を読んだ野田さんは、北欧神話の魅力を日本に紹介した谷口幸男・広島大学名誉教授(1929〜2021年)への感謝をあらためて記している。 ***
アイスランドで神話の世界を思う
訳者・谷口幸男さんは1973年に北欧神話や英雄伝説を記した古代歌謡(詩)集『エッダ』を、79年に中世の散文作品『アイスランド サガ』を詳しい註を付けて出版している。両著とも、古代北欧の精神世界を知り、想像し味わい、そこに遊ぶ最高の手引であり聖なる書であった。若い日、私は両書を読み、いつの日かアイスランドを旅すると決めていた。 1996年8月、私はアイスランドを北東から南西へ、第2の都市アークレイリを出てラング氷河とホフス氷河の間を越え、グトルフォスの滝へ向かっていた。どこまで駆っても緩やかに傾斜して広がる溶岩台地。所々、氷河からにじみ出た小川が道を阻む。澄み切った河の周りには、ひときわ白い小さな花が揺れる。晴れわたった溶岩平原の起伏、冷たく爽やかな北極圏の風。 台地の頂には氷河が運んだ大きな岩石(モーレン)が残され、北風に音を立てていた。白く輝く西と東の巨大な氷河から二つの川が流れ落ち、氷の林となった斜面が遠眼にも迫ってくる。まったく橋のない道を、車が水しぶきを上げて渡り続ける。西日が容赦なく顔を焼く。はるか遠く、溶岩の裾の湖が、西日を受けて金色の帯に輝いている。溶岩の山脈、起伏は重畳して迫っては走り、果てしなく褐色、黒、白、青、赤、黄金…と色彩を重ね、北海の雲を染めている。 私は何処へ向かって駆けているのだろうか。主神オーディンの住む天上の宮殿ヴァルハラか。真昼の鮮明な意識のまま、ふと北欧神話『エッダ』の世界へ移行していた。
『エッダ』によると、「ヴァルハラには五百四十の扉がある」という。狼との戦いに赴くときは、一つの扉から800人の戦士が一度に打って出る。戦場で倒れた勇士たちを、ヴァルキューレ(美少女)たちが手を伸ばしヴァルハラへ導く。梣(とねりこ)ユグドラシルは、あらゆる樹の中で最も大きいと言われる世界樹。枝は全世界の上に広がり、三つの根が支える。「一つの根の下にはヘル(死者の国の女神)が住み、もう一つの根の下には霜の巨人らが、三つ目の根の下には人間たちが住む」と言われている。オーディンたちは、巨人族の先祖ユミルの肉体から世界を創った。「肉から大地は作られ、血から海が、骨から岩が、髪から樹が、頭蓋骨から天が作られた」と神話は言う。 こうして『エッダ』の景色はそのまま目の前の現実として広がっていた。山頂近くのヘラヴェルの溶岩台地は熱湯が一面に噴き出し、熱泉は白い小さな山となって盛り上がっている。あるいは円形の白い池が点在する。空の背を映し、青い水と白い池の縁はあまりにも美しい。湯煙の立ち込める流れに指をつけると、染みるように熱い。どこから来たのか、ヒツジが熱泉のそばを流れる小川まで登り、水を飲んでいる。湯煙にかすむ白いヒツジたち、その外縁は陽光を浴びて黄色に輝く。再び湯気に消え、また現れては光を反射する。溶岩平原にはワタスゲの小さな穂が震え、雲の影が平原を走り湯煙と混ざる。私は神話と現実の景色の間を行きつ戻りつし続けた。 かつてある地域に、神話によって世界を理解し、生き愛し争い死んでいく人びとがいた。神話を読むとは、彼らが生きていた山河に立ち、彼らが想像していたように宇宙、世界、調和、誕生と死、言葉や観念の生成について思いにふけるためである。 今年2月に出版された完全版『エッダ』は、13世紀の詩人スノッリ・ストゥルルソンが著した「スノッリのエッダ」を旧版の倍近く加えて完結した。あれから三度、溶岩と氷河の山を旅したアイスランドを私は目に浮かべ、生涯、古代北欧歌謡と開拓の物語を紹介し続けた谷口幸男さんに感謝する。 ※以上は熊本日日新聞(2026年8月30日)に掲載された書評より転載しました。 [レビュアー]野田正彰(精神科医) 1944年、高知県出身。精神科医、作家。北海道大学医学部卒業。長浜赤十字病院精神科部長、神戸市外国語大学教授、ウィーン大学招聘教授、京都造形芸術大学教授、京都女子大学教授、関西学院大学教授などを歴任。『コンピュータ新人類の研究』で大宅壮一ノンフィクション賞、『喪の途上にて』で講談社ノンフィクション賞を受賞。 協力:新潮社 Book Bang編集部 Book Bang編集部 新潮社
- リンクを取得
- ×
- メール
- 他のアプリ
.jpg)
コメント
コメントを投稿