佐野寿宏のBOOKブログ!96歳の作家・皆川博子による傑作長編『ジンタルス』の魅力を書評家・石井千湖が語る(Bookレビュー)
ブックバン 8/19(水) 6:00
皆川博子の新刊『ジンタルス RED AMBER』が刊行。本作を、書評家でライターの石井千湖さんが語る。 *** 今年の一月、ドイツの文豪ゲーテの琥珀コレクションの中から約四千万年前のアリの化石が発見されたというニュースが報じられた。希少な鉱物ではなくただの樹脂が、生き物を封じ込め、途方もない歳月を経て宝石になる。皆川博子の最新長篇『ジンタルス RED AMBER』を読むと、長い時をはらんだ書物は琥珀に似ていると思う。 舞台は十九世紀、帝政期のロシア。農奴の孤児ミハイル・イリイチ・ロマネンコ(ミーシャ)は、住み込みで働いていた教会の輔祭(司祭の補佐)のはからいで、伯爵の従僕をつとめながら絵を学ぶことになる。ミーシャが才能を開花させるまでの経緯と、彼が著す小説『秘密法廷』の内容がパラレルに描かれていく。『秘密法廷』の主人公ジンタルスは、リヴォニア語を母語とするリーヴ人だ。リヴォニアは現在のバルト三国のラトヴィアとエストニアの一部からなる地域で、十三世紀にドイツ騎士修道会によって侵略された。家族を虐殺されキリスト教に改宗させられた少年ジンタルスは、復讐心を秘めつつ修道院で暮らす。 画家を目指しているはずのミーシャが、なぜ大昔の外国人の話を小説にすることになったのか。鍵を握るのが紅い琥珀とステンカだ。 子供のころ、ミーシャが樫の樹のうろにたまったやにで遊んでいると、輔祭が琥珀の生成に関する知識を与えてくれた。輔祭は〈かつては、琥珀は貝や海藻のように、海の恵みと思われていた〉〈太古の地層から流れ出し、海流にのって、遠い海辺に流れ着く〉と言う。海のように青い琥珀は存在しないが〈紅い琥珀はまれに発見される〉と聞いて、ミーシャは〈本来蜂蜜色である琥珀のなかで、紅くあろうとする〉紅い琥珀に惹かれる。 ステンカはミーシャが仕える伯爵家で“亡霊”(プリーズラク)と呼ばれる青年だ。先代伯爵の息子なのに認知されず、下女たちに育てられて、そのまま屋敷の図書室に居着いた。ミーシャは農奴という身分に縛られているが、存在しない者扱いのステンカは身分そのものを持たない。寄る辺ない二人は、好きな書物を介して親密になる。ミーシャはステンカに、海を旅する琥珀の話を語る。そして、彼らが離ればなれになるとき、ステンカが手渡した一冊の本は、ミーシャの運命を変えてしまう。その本を読んだことがきっかけで、国家や宗教が広める大きな神話の裏側にある史実を知り、踏みにじられた弱者に思いを馳せて、創作にも反映するようになるのだ。 ミーシャはたまたま自分のもとに流れ着いた紅い琥珀みたいな書物から、おのずと芽生えた物語を繁らせる。彼の作品はどんなイデオロギーとも関係なく、ただ表現したいことに忠実なだけで、圧倒的暴力に対する反逆になっているところが素晴らしい。これって、皆川博子がずっと小説で実践してきたことではないか。 皇帝の支配下にあるロシアは、些細なことが危険思想と見なされる社会。ミーシャも過酷な道のりを歩むが、旅の終わりは未来にひらかれている。世界の政治状況が不安定で、人々が閉塞感をおぼえている今こそ読まれてほしい一冊だ。 [レビュアー]石井千湖(書評家) 1973(昭和48)年佐賀県生れ。書評家、ライター。早稲田大学卒業後、書店員を経て2021年8月現在は書評とインタビューを中心に活動。著書に『文豪たちの友情』『名著のツボ―賢人たちが推す! 最強ブックガイド』、共著に『きっとあなたは、あの本が好き。―連想でつながる読書ガイド』『世界の8大文学賞―受賞作から読み解く現代小説の今』などがある。 協力:河出書房新社 河出書房新社 文藝 Book Bang編集部 新潮社
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